千年祀り唄
―無垢編―


7 夕顔


黄昏に咲く白い花。
僅かに俯いたその横顔。
それは、何処か遠い母の面影に似ていると、彼は思った。

その花の淵に留まり、羽を休めている一匹の蝶。
蜜を吸うでもなく、天敵に追われている風でもない。ただじっとそこに止ったきり動かずにいる。よく見ると、体が微かに震えているようにも見えた。何かをしようとしているのか。それとも、何かを終えたところなのか。届かない幻の花に止る蝶に触れることはできず、彼にとっては、それを確かめる術もなかった。

滑り落ちる思い出の向こうで母が呼んでいた。

――若? 若宮、そこにいるのですか?

庭に面した回廊に立った母は光沢のある美しい着物に黄昏色を反射させていた。
「母上」
彼は急いで女の元へ駆け付けた。

白く透き通るような肌。薄く紅を差した唇。
少年はそのすべてを目に焼き付けておきたいと願った。

庭に咲く可憐な花も、美しい羽を持った蝶も皆、いつかは醜く枯れ、朽ちていってしまうものだから……。
そして、今目の前にいる朝露……。この母でさえ……。

それは灼熱に燃える山よりも、火口から噴き出し、茜の空を濁す灰よりも恐ろしい呪いとなって、彼の胸を締め付けた。

夕顔の花が咲いていた。
そこに羽を休める蝶の影がただ一つ。
黄昏の中で色を失う。

瞼に映るは茜色。
そして、朽ちた思い出の羽が一枚……すっと手のひらから毀れ落ちた。


流れ落ちた滴が、男の甲を濡らし、その水滴を舐めようと、温かな生き物の舌が這った。
「どうやら、おれは夢を見ていたようだ」
傍らの犬の頭を撫でると、男は静かに立ち上がった。

――むく
――どうしたの?
――めからひかりがこぼれてる
寄って来たもっこ達が騒ぐ。
「何でもない……。この花のせいかな。昔の夢を見た」

――このはなはなあに?
「夕顔だ」
――はながゆめをみせるの?
「いや。だが、おれにとっては懐かしい匂いがするんだ」
――あたしにもするかな?
――なつかしいってどんなかんじ?
もっこ達が花の周りに集まった。しろも、そこに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。と、いきなりくしゅんと大きなくしゃみをした。もっこ達が一斉に飛んだ。

――しろがくしゃみした!
――しろのかぜにとばされた!
――しろもなつかしいの?
再びもっこ達が集まって来て訊いた。
しかし、白い犬は何も答えない。ただうれしそうに目をくりくりさせて舌を出しては尾を振るばかりだ。

――なにもいわない
――しろはいわない
――こたえたくないの?
――ねえ、なにかいって!
犬の耳を両側から引っ張って口を寄せると、もっこ達が叫んだ。しろは、たまらないと言いた気に尾を丸めてきゃんと鳴いた。

「これこれ、あまりしろを困らせてはいけないよ」
無垢が止める。
――どうして?
――ききたいのに……
――もっといっぱいききたいのに……
もっこ達が、今度は無垢を取り囲む。

「懐かしいというのは、まえに何処かで同じようなことをしたということを覚えているから、そう感じるんだ」
――まえにも?
――まえもおなじなの?
――おぼえてるの?
「そうだよ」

――それじゃあ、むくもおぼえてる?
――あたしたちのことをおぼえてる?
「おまえ達のことは……今覚えたよ」
――うん。おぼえたよ
――いま、おぼえたよ
――むくのこと、おぼえたよ
もっこ達が笑う。その足元で勿忘草が揺れている。

(もう忘れない。忘れたくない。
花びらの記憶……)

そこは、いつも緑に覆われていた。季節の花に彩られ、風に揺れて子守唄を唄う。
春から夏へ、夏から秋へを繰り返し、季節を違えた花が幾つも咲いた。

――ねえ、むく。どうしてこのはなはゆうがおというの?
一人のもっこが訊いてきた。
「夕方に咲くから……」
――どうして、ゆうがたにさくの?
「花はいろいろな季節に咲くよ。そして、その中には朝に咲くものもあれば、夜に咲くものもある。どうしてかな? 虫や動物の中には、夜にだけ活動するものがいる。そういった夜の生き物達にも見て欲しくて、夕方や夜に咲く花があるのかもしれないね」
――むくははながすきなの?
「ああ……」

――母上は、花がお好きなのですか?

季節を違えて出た蝉は、この世に出ることさえ許されずに死んだ。
季節を違えて生まれた者は、時代の風に翻弄されて、大人になることを許されなかった。
ここに集まる魂は、この世に生きられなかった子ども達……。
(おれもまた、この世では生きられなかった存在……)

――私と来るか?

その女はおぞましい蜘蛛の姿をしていた。しかし、彼はそれを醜いとは思わなかった。むしろ、そこに安らぎさえ感じた。

――私と……

(おれは……)
妖艶な女の白い袂が揺れていた。
その袂を掴もうと、微かに指を震わせた。

見下ろして来る女の細い目に、空を走る稲妻が映り込む。


返り血に濡れた黒髪が、風に靡いてその頬を打った。
「おれは……」
悲しみの底で咲く白い花……。
手に入れることができなかった想いが、一瞬だけ形になって目の前にいた。

その時、空に亀裂が走り、雷鳴と稲妻が激しくぶつかって大地を焼いた。
すべてを燃やし、打ち砕かんとするかのように……。

少年はそこに取り残された。
大人になれなかった心の残骸を踏み締めて、彼は視線を宙に浮かせた。
降り注ぐ雨と屍の群れ……。
猛り狂う稲妻は、闇の荒野を駆け巡り、そこに立つ者を嘲笑った。
蜘蛛の巣は破れ、女の姿は何処にもなかった。

「幻……」
泣けない心で浮かべた微笑。乾いた感情が神経に触れて痛み、ただそこに膝を折って、刀の柄を強く握った。大地に積もる白い悲しみを抱いて……。

――人は無垢なままではいられない

閉じた瞼の裏に浮かぶまほろば……。
(それでも、おれは無垢になりたかった……)


男の手が花を散らした。
結び付かない記憶の断片を見るように……。
彼は空を見上げた。
「なりたかったんだ。汚れを知らぬ無垢な存在に……」

――ねえ、かけっこしよう!
――どんぐりのきのむこうまで
もっこが言った。
「あの木の向こうへ……」

空では雷鳴が響いていた。が、雨はまだ降り出しそうになかった。
(そうしておれは境界を越え、無垢になった)

――私と来るか?

刀の鈴がちりりと鳴った。
(あの一瞬だけ、おれは満ちていた)
だが、傾いた月が闇に沈むと、すべてが崩れ去った。
夜を走る稲妻。
(その爪に裂かれるならば……)
飢えた血の呪いに駆られ、すべてが死に絶えた村で……。
(おれは……)

凝らした目には何もなかった。
そこにはただ、果てしない虚無が広がっているだけ……。
(そうしておれは……無垢になったのだ。血塗られた手と、引き裂かれたこの手を持って……)


「無垢……」
気脈に綻びが生じていた。
妖の目がじっと暗闇から見つめる。

無垢は人間に戻り掛けていた。
それは女にとって喜ばしいことなのか。それとも嘆かわしいことなのか。
幾重にも分岐した感情の向こうに置かれた命。

女の手には糸で編まれた白い花。
風に吹かれてほどける記憶……。


――いこう!
――いこう!
――いっしょにいこう!
白い犬ともっこ達が駆ける。
――むくはいかないの?
一人のもっこが振り向いて訊いた。
「おれは……」

橡の木の下に立つ一人の女。
「いきたい……」
そう呟いて立ち止まる。
(生きて、おまえと……)

――私はいつかおまえを喰ろうてしまうかもしれぬぞ

蜘蛛の女が妖しく笑う。
(それでも……)

白い小花の群れの中……。
無垢は女の幻を見た。

気がつけばずっと花の中に、その幻を追い続けていたのかもしれないと感じた。
永遠に閉ざされた籠の中で生きる孤独。
誰も彼のために子守唄を唄わない。
花も木も鳥も……。そして、もっこ達でさえ、時が来れば、無垢を置いて旅立って行く。
数え切れないほど季節の花を集め、指笛で鳥達を呼んでも、日が暮れるまでもっこ達と戯れ遊んでも、彼の中の空白は満たされなかった。


「わん!」
突然、犬が吠えた。
「雨か?」
男の身体に水滴が落ちた。しかし、それは雨粒ではない。
「熱い……!」
西の空が燃えていた。夕焼けとは違う異様な色をし、周囲には独特な硫黄のにおいが立ち込めていた。

(何故気がつかなかった? こんなになるまで……)
山が膨張し、大地が鳴動を始めた。それからほどなくして突き上げるような振動が来た。
「噴火だ」
無垢は慌ててもっこ達の元へ駆けた。

――なに?
――おおきなおとがしたよ
――やまがひいろにもえてるよ
――きもくさも、みんなふるえてる!
――こわい!
もっこ達が泣き出す。
「おいで! 早くおれの懐の中に」
怯えるもっこを抱えて無垢は走った。

「山が火を噴いたのだ。逃げなければ……」
――やまが?
――ひをふいたの?
――どうして?
――やまはおこってるの?
「いや、だが、山も時々溜まった力を吐き出さなければ、喉がつかえてしまうんだ。人間と同じように……。ただ、山は人よりも大きいからね。逃げないと巻き込まれてしまう」
無垢は手短に説明した。

――にげなければいけないの?
「そうだ」
間に合うだろうかと無垢は思った。噴火が始まればしばらく続くだろう。山を下る溶岩の流れは速い。


無垢は丘に上った。灼熱の溶岩は無垢が支配する狭間の領域にさえ影響を及ぼし、彼らの生活圏を奪った。
「ここしばらくなかったのに……」
再び飢饉が訪れて、悪夢が村を襲うのかと思うと、男の胸は酷く痛んだ。
(あの時のように……)

せっかく実り始めた作物や、軒を連ねて建ち並んだ家並みも、一つ残らず消えてしまう。
何故、悲劇は繰り返されなければならないのか。
どうして、人は先へ進むことを拒もうとする。
そこに立ち止まっていてはいけないのに……。
だが、命は、
そこに在ったのだ。
はじめから……。
同じ運命の元に……。
(おれも……このもっこ達も……)

炎の風に混じった冷気が無垢の身体を掠めて行った。
逆らうことができなかった。
それは、見えざる者の思惑なのか。
それとも単なる偶然に過ぎないのか。
赤子の魂を司る無垢にさえ、その行く末を知る由はなかった。


「足りない……」
無垢はもっこの数を数えて愕然とした。七人いた筈のもっこが今は六人しかいない。しかも、犬の姿もなくなっていた。
「まさか、途中で逸れたのか?」
もう、あの橡の木は見えなかった。周囲は流れて来た土砂と溶岩によって埋もれてしまっている。

「何てことだ」
犬ともっこ、二つの命が消え掛けている。
「探して来る」
男が言った。
「すぐに戻って来るから、決してここから動くでないぞ」
――わかった
――うごかないよ
――ここでまってる
――むくがくるまで……
「よし、いい子だ」
そう言うと、彼は走り出した。


低く唸るような地響きに混じって、子どもの泣き声が聞こえた。
――うぇーんえん。あついよ
もっこが犬に寄り添い蹲る。
犬は鼻を鳴らしてもっこを舐めた。

――はなを……このはなをむくにあげようとおもっただけなのに……
小さな手にはしおれた白い花が握られていた。
――このはな、むくがなつかしいっていったから……
赤い炎が猛り狂ったように吹き荒れて、草を枯らし、彼らの頭上を舐めていった。

「わん!」
突然、犬が激しく吠え立てた。
「しろ!」
犬が無垢を見つけて跳び付いた。
「無事であったか」
ぐったりとしていたもっこを抱える。

――これを……
抱かれたもっこが花を差し出す。
――このはなをむくに……
「夕顔……? この花をおれに……」
無垢はもっこの顔に頬を寄せた。が、もっこは目を閉じ、小さな手からしおれた花がぽとりと落ちた。

夕顔……。
その花は母の面影に似ていた。
儚く咲いた、凛とした横顔。
そして、その白い色は、他のどんな色にも染まらない。
潔癖な冷たい鎧に守られていた。
(あの蜘蛛の女のように……)
無垢はしおれた花を強く握った。
もっこは男の肩にもたれて眠り、しろは、息を切らせて駆けて行く。


――むくだ!
――むくがかえってきた!
もっこ達が先を競うように、男の懐に飛び込んだ。
空を覆い尽くす黒煙。
そそり立つ火柱。
山を下る緋の泥濘。

「いかん。このままでは……」
無垢はその手に小さな命を握り込んだ。そして、周囲に風を巡らし、祠を編むと、水鏡の結界を張った。そうして、幾重にも連なる波の底に身を沈め、熱が静まるまで、長い時をじっと待った。


そよぐ風は静かだった。男の周囲には草の葉が香り、夕顔の花が寄り添うように咲いていた。
「無垢……」
女はそっとその手に触れた。
時を経て、無垢は本性に戻っていた。

「妖力を使い果たしたか……」
山は時折、噴煙を上げるだけとなり、空にも澄んだ青さが戻っていた。が、男は目覚めず、その手に夕顔の弦が絡みつく。その弦をそっと外して、蜘蛛の女が彼を見つめる。

「人間よ……。あの時選んだ道は、おまえを満たしてくれたか?」
男の頭を抱き寄せて頬を寄せる。
「それで本当に……」
白い着物の膝に頭を乗せて話し掛ける。
「無垢……」
白い綿毛に包まれた玉が七つ、無垢の手から転がった。
その途端、何処に隠れていたのか、白い犬が駆けて来て、それらを舐めた。するとその玉が弾けて、幼子が七人、淡い気泡に包まれたまま出て来た。

――なあに?
――まぶしい!
――ここはどこ?
――おまえはだれ?
――むくは?
――やまはどうなったの?
――しろは?
もっこ達が賑やかにしゃべり出す。

「おまえ達、後生だから、あっちへ行って遊んでおいで」
女が言った。
――だれ?
――おまえ、なに?
――こわいよ
――むくは?
「無垢は……疲れておるのだ。眠らせておやり」
――どうして?
――だって、むくは……
もっこが無垢に手を翳す。

「触れるでない!」
女が厳しく注意する。叱られたもっこが慌てて手を引っ込めた。
「これは無垢ではない。今は人と同じ者なのだ。触れてはならぬ」
――ひととおなじ?
「無垢の本性は人なのだ。おまえ達を守るために力を使い、一時的に人間の本性に戻ってしまった」
――ひとに……?
――どうして?
――また、もとにもどる?
「ああ。だから、おまえ達はその犬と遊んでおいで」
女の目が優しくなったのを見て、もっこ達は頷いた。そして、しろと共に野原の向こうへ駆けて行った。

「人間か……」
女が呟く。
「他愛のない。何の力もない。ただの……」
その人間の頬を、女は妖の手で撫ぜた。


――母上……
彼は夢を見ていた。
夜にだけ咲く美しい月見草。その花をそっと母に届けようと……。
母のためなら夜の暗がりさえも恐れなかった。
母は花が好きなのだ。珍しいその花を見せたくて、部屋に忍んだ。
ついたてに母の着物が掛けられていた。行燈の火がちらちらとゆれている
(あれは……)
重なり合う二つの影を見た時、少年は気づいた。母が自分一人だけのものではないのだと……。
夜の光の中で、彼は月見草を強く握り締めた。


「母上……」
微かに唇が震え、伸ばし掛けた男の手を女が掴む。
「無垢……」
女がそっと睫毛を伏せる。

空には鳥の声が戻っていた。
女は彼の腰に括り付けてあった丈筒を取ると、自らの口に含んだ。そして男の身体を抱き起こすと、そっと唇を開かせ、含んだ水を与えた。
「愛しているよ。だから、忘れておしまい。何もかも……」
女の冷たい手が弦草のように絡み付く。

「おまえは……?」
男が目を覚ました。
「無垢、呪いの解けぬ人形となって、再び境界へと戻るのだ」
女がすっと男の身体から離れた。
「呪いの解けぬ人形だと……? 待て! おまえは……」
男の中で記憶が曖昧に歪む。

「おまえは汚れを知らぬ赤子の魂を守る者。妖の私に触れることはできない」
「そうだ。おれは無垢になった。だが、……」
男は手の甲で濡れた唇を拭った。
「この感触は、おまえの……」
伸ばし掛けた男の腕に夕顔の弦が絡みついて止める。

「お行き!」
女の身体が変容し、異形の貌になった。
「おまえはこの黄昏に夢を見たのだ。夕顔の花に映し出された幻を……」
「幻……」

遠くで子どもの笑い声が響いた。それから犬の鳴く声も聞こえる。
そこに女の姿はなく、ただ、黄昏に咲く夕顔の花が在るだけ……。

――むく?
――かえってきたの?
――あのおんなのひとはどこ?
「女の人?」
無垢は微かに首を傾げた。

「誰のことだろう? おれはずっと一人だったよ」
――ひとりだったの?
――ひとりだったって
――そうだね
――むくはずっとひとりだったよ
「それじゃ、行こうか?」
――そうだね。いこうか
――いこう
――むくといっしょに……

夕日に向かって歩き出す無垢を追って、もっこ達が駆けて行く。そのあとに付いて行く犬の尾の先で光るのは白い夕顔。
それは夕闇に染まることを拒むように、何処までも白く、凛として咲き続けた。